子どもの頃、母が読んでくれた赤ずきんちゃんがすきだった。森のみどりと赤ずきんちゃんの赤いマントがわくわくするお話の世界を彩った。赤ずきんちゃんはおおかみに会ってもびびらない。ひとりでおばあさんのところにお見舞いにいく。お花がだいすきでつい寄り道してしまう。おおかみに食べられちゃっても猟師に助けられると何ごともなかったかのようににっこり笑う赤ずきんちゃん。いつのまにか暗記してしまったこのお話を、まわりのおとなたちに話して聴かせた。おとなたちは、うんうん、へ〜と頷きながら私の語る赤ずきんちゃんの物語に耳を傾けてくれた。私はそれがうれしかった。
小学校の頃、国語の時間がすきだった。教科書をみんなの前で声に出して読む時がいちばんすきだった。
中学の修学旅行で京都奈良を旅した時。家に帰ってくると母に目で見体験したことを興奮しながら伝えた。「あのね、それでね」。母は笑いながら聞いていた。「ひろ子の話を聞いていると、自分もいっしょにそこにいるみたい」と。
高校では、新聞部に入った。私はなにか伝えたかった。わたしが伝えることでひとが喜んでくれることがうれしかった。
大学時代、テレビに出会った。それまで考えたこともないテレビの世界。それはとても刺激的で燦めいていた。ことばはいきもののように、音になって、心を揺り動かす。それはたとえ無音でも。一瞬にマスとその場を共有する強大な伝える力。そうして私はアナウンサーになった。
ことばの波動は電波をとおして、媒体をとおして伝わる。ことばそのものの力というより、圧倒的な情報。そしてスピード。生放送が私の仕事の舞台となった。そして37年が過ぎた。その間、脳梗塞になって失語症を体験したことは、私の分岐点になった。
ことばで伝えることが使命。そう信じてきた。私のスキルを必要としてくれる場はテレビ。喜んでくれるのは働く仲間。でも、失語症になってことばを失った時、絶望の底からことばがなくても伝わることを知った。
一度はすべてをあきらめた。ひとと交わることも、ことばを交わすことも、もちろん伝えることも、ことばを武器とする仕事に復帰するなんて無理。泣いて泣いて、涙が涸れるまで泣いて、でも、その先に、だいじょうぶということばを知った。だいじょうぶ、わたしはわたし。わたしのすきなことはなにものも奪うことはできない。流暢に話すことはできなくても、わたしの心に灯るわたしのだいすきなことはなくならない。
気がついた。子どもの頃、赤ずきんがすきだったこと。わたしが話す赤ずきんちゃんをみんな喜んで聴いてくれてうれしかったこと。国語の教科書を音読するのがすきだったこと。ことばで伝えることがなにものにも代えがたい喜びだったこと。
そこから、自分に向き合った。できない自分に。受け入れた。それがスタートだった。
私はたくさんの物語を声に出して読んだ。日本文学、世界の名作、古典、童話。文字を声に出して読んだ。最初は文字と音との照合。だから、うまくないし時間もかかった。それでもいい。だってすきなことをするためにやってるんだもの。意味の理解はその次。情景が浮かんだ。いつのまにか、本のなかに私はいた。主人公ではない。本の中の空気のような客観。それが私。声はわたしの感情と全身をとおして発せられた。伝えるひととして。
それでもまだだれにも会わずに引きこもっていたある日。母が朗読サークルに誘ってくれた。練習していたのは「フランダースの犬」。朗読劇のリハーサルをしていた。ところが会場がざわつきはじめた。準主役のひとが休みでリハーサルができないとみんな困っていた。いっさいに私に目が向けられた。事情を知らないみんなは、プロのむすめさんがいるじゃない、ここに、と。母と私は困った。だって、私は失語症なのだ。文字は理解してもすぐに声が出せるとは限らないし、ちがうことばが出てしまうこともある。
それでも、私は引き受けた。だいじょうぶ!と言ってあげたかった。死ぬほどドキドキした。そして、第一声。あ!できた。その時の安堵感は今思い出しても全身脱力する。3つのセリフをやり遂げた。
これが第2の分岐点。ことばで伝える、みんなが喜んでくれる。わたしがすきなことをやればいいんだ。何年かかっても、わたしの人生なのだから。
朗読の世界が開けた。一分一秒一フレの時間に縛られない私の朗読の世界。そして、声の波動が空気を伝わって聴く人全身を包み込む。一瞬にして物語の世界へ誘う。
私に新しい世界。YouTube。自分だけのチャンネル。朗読作品は今1,600を超えた。私の声とことばの世界。聴いてくれるみなさんが喜んでくれたらうれしい。それがわたしの喜び。
朗読をしたい。そんな方に心をこめて教えたい。声を出す喜び。聴いてくれるひとが喜んでくれるしあわせ。
私の朗読教室は、しあわせと喜びに包まれている。みんなが笑顔になりますように。
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