「点滴とれたんですね。よかったですね。調子はどうですか?」
言語聴覚士の先生は、いつも、ゆったりと構えながら、私の話に、ジッと耳を傾けてくれました。私は、点滴がとれたおかげで急に元気になったような気がすること、言葉の方はなかなかうまくいかないことを報告しました。
「どうしても漢字の前でつまずくんです。どうしてでしょう?」
失語症の苦しみを医学的に理解してくれている先生には素直に〝自分ができないこと〟を告白できました。すると先生は白い紙に何か書き始めました。
「沼尾さんの脳のダメージを受けた部分が、この左耳の上あたり。ここは、言葉をつかさどる言語野なんです。
そして、死んでしまった細胞はもう再生することはありません。そのかわり、まわりの細胞を活用して、忘れていた言葉を思い出したり、今まで無意識のうちに行ってきた言葉の使い方の記憶をよみがえらせたりするの。
沼尾さんの場合は、漢字の変換に少しタイムラグがあるんですね。時間がかかっても、生きている細胞を上手に使っていけばいいんですよ」
そう言って、「新聞記事の漢字にふりがなを振ってみるといいですよ」と提案してくれました。
骨折だって時間がたてばくっつくのに、一度死んだ脳細胞は二度と生き返らないという事実はかなりショックでした。
でも、脳梗塞による失語症のメカニズムをきちんと説明してもらえたのは嬉しく、自分の症状を自分自身で把握していると、不安もかなり薄らぎました。
言語療法室からの帰り道に思いきって新聞を買いに行くことにしました。小さな売店の奥の棚に並ぶ新聞を一部抜き取り、緊張しながらレジに向かいました。
病気になって以来、会話を交わしてきたのは、私の症状や状態を理解してくれている人達ばかり。でも、ここでは、私のことなど何も知らない、何の心構えもない相手との初めての会話です。
「これをお願いします」
「はい、一五〇円です」
「千円札でもいいですか?」
「大丈夫ですよ」
本当に何気ない日常会話です。私は普通にしゃべっているかしら。相手に通じているのかしら。おかしなことは言ってないかしら? 不安がよぎりました。
ドキドキしながらおつりをもらい、「ありがとうございました」と笑顔で言われた時、嬉しくて、ホッとして、心の中で、「やったーっ」とガッツポーズしました!
ニコニコしながら売店から出てきた私とすれ違った中年の女性が、不思議そうな顔で見つめたことを覚えています。
売店は玄関ホールとつながった広々とした総合待合室の一角にあり、老若男女さまざまな人が座っていました。
外来患者や白衣を着た病院関係者、付き添いの家族なども行き交い、入院病棟フロアよりも、すべてが気ぜわしい感じでしたが、ザワザワとした雰囲気が嫌ではありませんでした。
玄関ホールには案内カウンターがあり、その横にも一脚、長椅子がありました。
私は吸いよせられるように歩いて行って腰を下ろし、売店で買った新聞を読んでみようと思いつきました。
そして、一番後ろのページを広げて、目についた記事から声を出して読み始めました。
私の声は周囲の音にかき消されて、気にする人は誰もいませんでした。
病室は個室でしたが、ホテルではないから、お腹から声を出せば響きます。両隣からは、壁越しに苦しそうに喉を鳴らすおじいさんの声や、大きなイビキも聞こえていました。
でも、玄関そばのこの場所なら、何の気兼ねもいらなかったのです。
こうして別館の言語療法室からの帰りは、必ず本館の売店に寄って、玄関ホールの長椅子に座って音読をすることが私の日課となりました。
さらに、先生は、新聞にふりがなを振ることを提案してくれました。私の脳内コンピューターは故障しており、音変換を正確なものにするためには、ふりがなを振るのが一番らしい。
私はさっそく、実践してみることにしました。
高こう校こう球きゅう児じ達たちの暑あつい夏なつ。
こうして漢字につまずく心配がなくなりました。
ふりがなを振ると、「こども新聞」みたいになるけど、人目など、気にしていられません。意味が理解できなくても、とにかくふりがなを振り、ひたすら声に出して読みました。
すぐ疲れるので、あまり長くはできません。おまけに、一回目が比較的スムーズにできたからと言って、二回目もできるとは限りませんでした。
「さっきはできたのに」と落ち込むこともしばしば。やればやるほど〝ダメな自分〟を突きつけられました。
けれど、目の前の課題をただひたすらこなすことで、私はさまざまな不安から逃れようとしていました。
〈続く〉
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