「脳梗塞・失語症から言葉を取り戻すまで」10〜言語のリハビリスタート

明日からリハビリ開始。リハビリが始まるのはうれしい。それまで、病室では何の目標もない日々だった。しかし、やるべきこと、目指すことがあるというだけで、人間ずいぶん気持ちが明るくなるものだ。ただ、 リハビリを受けることに、まったく不安がないと言ったらウソになる。もう、これ以上、傷つきたくなかった。リハビリの現場でうまくしゃべれず、何か決定的な診断を下されたら、私はもう立ち直れないに違いない。

入院して今日で14日目。いよいよ、今日からリハビリがスタートする。期待と不安の入り混じった複雑な気持ちで朝を迎えた。

5階の入院病棟からエレベーターで2階まで降りて、そこから連絡通路を渡り別館へ。手術棟を抜けて、ふたたびエレベーターに乗って1階まで降りる。エレベーターを降りたら、角を曲がれば、すぐに「言語療法室」とプレートの出た部屋だ。病室から言語療法室までは、距離にすればたいしたことはない。それでも、入院してから一番の遠出である。私は、実際以上に長く感じられる廊下やエレベーターを移動しながら「ちゃんとしゃべらなくては」と自分に言い聞かせていた。

私は話すことを仕事にしている。だから、普段どんなときにも相手に自分の思いや考えが伝わるよう、ちゃんと順序立ててしゃべることを心がけてきた。心がけるというより、もう身についてしまい、無意識のうちにそうしていると言ったほうがいいかもしれない。それが「失語症」と診断された今は、改めてキチンと話すことを強く意識していた。

でも途中で思った。そうだ、うまく話せなくたっていいんだ。今のありのままの自分で。ここは病院なのだから。

言語療法室の前には、白衣の女性が微笑みを浮かべて立っていた。私を待っていてくれたらしい。案内されてスライドドアから中に入ると、まず、受け付けや事務処理などを行うようなデスクの置かれた小部屋がある。そこから、さらにドアを開けて奥に進むと、6畳ほどの部屋が待ち受けていた。右の壁は本棚で、何やら難しげな本がギッシリ詰まっている。しかし、あとは、いたって普通の部屋。無駄なものがないのは、いかにも病院らしい。正面には窓があり、窓の外には大きな通りがあるようだ。でも、驚くほど静か。

「こんにちは、沼尾さんですね」

この色白の和風美人の女性が言語聴覚士の先生だった。30代半ばだろうか。温かい声で、ゆっくりはっきり話しかけてくれる。「はい、よろしくお願いします」と言いながら、部屋の真ん中のテーブルをはさんで、先生と向かい合わせに座った。正面には窓が見える。

私は緊張しながら、自覚している症状のこと、仕事のことなどを一生懸命に話した。ここに来る途中「ちゃんとしゃべろうとしないでいい」「ありのままでいい」と言い聞かせ「そうだな。そうしよう」と思った。でも、気がつくと、うまくしゃべろうとする私がいる。先生に話してる途中、何度か言いよどんだ。

先生はうなずきながら私の話を聞いてくれた。ときどきと相づちを打って、私の苦しみに優しく寄り添ってくれる。私のことをわかってくれる人を見つけた、と思った。この女性が話を聞いてくれて、リハビリの手助けをしてくれれば、ときどき私を襲う「死にたい」という思いもはねのけることができるかもしれない。

〈続く〉

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この記事を書いた人

ナレーター/朗読家/司会/声とことばのトレーナー

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