生きることに使命がある

「生きる」という意味を考えてみる。生死の境をさまよい医師から「最悪のことも覚悟しておいてください」と宣告された家族は、意識を取り戻した私に向かって「生きててくれてよかった」と言いました。家族の願いは生命体として存在してくれているだけでいいというものです。言葉は悪いですが、草花やペットを愛でるのと少し似て自己愛的な一面も持っています。もちろん、深い情愛が根底にあることは理解している上で申し上げているのですが。この言葉は、少なくとも最悪の事態は免れた思いの共有、さらに、慰め、いたわり、さらには励ましへとつながっていくのですが、しかし、時として非常に残酷です。

ただ息をしているだけでひとは生きる喜びを見出すでしょうか。何のために、誰のために、どこに向かって? この質問を自分自身に投げかけた時、息をしていることさえも苦しくて逃げ出したいと思っていました。

たとえば、果てしなく広がる砂漠に意味もなくポツンとひとり取り残された自分を想像してください。あなたはどう思いどう行動しますか?

もしかしたらこのまま飲まず食わずでいたら死んでしまうかもしれない。なぜ自分はここにひとりでいるのだろう。死にたくない。①体力を温存しよう。

②じっとしてキャラバン隊が来るのを待とう。③日の沈む方角に向かって歩こう。

事実→思考→疑問→意志→目的→行動

しかし、意義を見いだせない場合、当然も目的も見えないし行動する活力も湧き起こりません。どうしたらいいかわからない。砂漠の真ん中でただ呼吸しているだけの生命体。

そうなのです。「生きる」ことと「生きながらえること」は本質的に違うのです。

では「生きる」こととはー ひとによって「生きる」意味合いは違うでしょう。

私の場合は、喜びです。生きる喜び。それは与えられた人生を自分の存在価値を認識し胸を張って生を全うすること。

ひとによっては「安らかさ」であったり、「しあわせ」であったり、「誇らしさ」であったり、「必要性」であったり、様々な言い方で表現できます。

すべてのひとに共通していえること、それは、「生きることに使命がある」ということです。

重度の麻痺を持ちベッドの上で話すことも動くこともほとんどできない難病の女性がいました。

「私が息をしてそこにいるだけであなたがしあわせなのだとしたら、私は命尽きる限り生き続ける。」

彼女の使命は「命ある限りこの世に存在し、『あなた』にしあわせを与える」こと。彼女は生きる意義を見出し、目的を果たそうと行動し、それが生き甲斐となりました。生きる喜びへとつながっていったのです。

もし、存在する意義を見いだせなかったら、それは苦しみ以外のなにものでもなかったでしょう。

ひとは無意識のうちにも「生きる」ことに意義を求め、目的ができて初めて行動に移せます。それを能動的にとらえるか、気づかぬふりをしていることに慣れてしまっているか。

あなたの使命は何ですか?

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この記事を書いた人

ナレーター/朗読家/司会/声とことばのトレーナー

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