もうちょっとだけ

「あなたは、本当に幸せね」と言われた時、その言葉が重苦しくて、「あなたに何がわかるの?」と意地悪に言い返したくなりました。結局、言い返す力がなかったから、お愛想笑いをしてその場をやり過ごす。そんな自分がまた嫌で落ち込んでしまいした。

他人から見たら幸せそのものでも、本人は針の筵だったりすることがあります。

私は、ひらがなをかろうじて認識できるほどの失語症になった時、これからどうやって生きていけばいいんだろう、と朝目を覚ました瞬間から毎日暗い気持ちでいました。話すことが職業だったわけですから、文字が認識できない、伝えた言葉が出てこない、自分の発する言葉が正しいものなのかわからない、この吐きたいほどの苦しみに、何度も負けそうになりました。まさに、生きていることが地獄だったのです。

かろうじて命は取り留めたのですから、多くの方は「よかった」と心から思ってくれたのでしょう。そしてもうひとつ、この「よかった」には慰めの気持ちも含まれていることも知っています。言葉が話せないナレーターに、「命があるだけよかった」と言う以外なかったのでしょう。今だからそのことを客観的に見つめることができますが、あの時はただ黙って聞いているのが精いっぱいの対応でした。

本当は「よかった」と言われる度に心はざわつき、ちがう、ちっともよくなんかない。死んだ方がよかった。命があっても私は幸せなんかじゃない。そう心の中で叫んでいました。

では、もし「あなたはなんてかわいそうなの? 不幸なひとね」と言われたらどうだったでしょう。そうよ、私は不幸なかわいそうなひとなの、と再認識するのか、違う、私、不幸なんかじゃないわ、と言い返すか。

正直今の私にはその時の気持ちを確実に想像することができません。でも、これだけは確かなのです。私を支えてくれたのは家族と友人でした。両親は何も言わずただ寄り添ってくれ、夫は「大丈夫だよ」と笑顔で言い、妹達は「仕事はひとつじゃないよ」と励ましてくれ、友人は気ままな美味しいお店の話で心和ませてくれました。私はひとりではありませんでした。このことに気づいた時、もうちょっとだけがんばってみよう、と思ったのでした。「もうちょっとだけ」。その積み重ねが時を紡ぎ、今私は笑顔でここにいます。

幸せか不幸せか、それは他人が決めることではありません。自分が決めるのです。

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この記事を書いた人

ナレーター/朗読家/司会/声とことばのトレーナー

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