医療コミュニケーションについて思うことpart2 〜 コミュニケーションは育てることができます。

私自身、入院中、とてもうれしかったことと心がズタズタになるほど悲しかった出来事両方を体験しています。

初めて言語療法室を訪れた時のこと。目の前に、犬や太陽の絵が描かれた用紙を広げ、「これは何ですか?」と聞かれました。それは失語症がどの程度のものかと測る検査です。医療行為としては当たり前なのですが、言葉のプロとしての自尊心は粉々なのでした。こんなことを聞かれ答えねばならないのか。まるで、幼稚園児じゃない。涙がこぼれそうになりました。

と、その時、突然言語療法士の先生は私の目の前からその用紙をしまったのです。「これは沼尾さんには必要ありませんね。こっちはどうでしょう」次に目の前に出されたのは、漢字にルビのついた短い文章でした。それは、初めてテレビ局のアナウンス部に配属されて最初の3ヶ月、毎日かかさず練習した滑舌練習の文章と同じものでした。ちっとも読めなかったのですが、私はとてもうれしかったのです。慣れ親しんだその文章をもう一度読めるようにがんばってリハビリしようと思いました。

もうひとつは、心が切り刻まれその時の痛みさえ覚えている出来事です。言語療法室でのリハビリから病室へ戻る途中、ナースセンターに顔見知りの看護師さんがいました。文章の文節がわかるようになり少しづつ笑顔を取り戻していた私は、「これならいつか仕事もできるようになるかしら」と声をかけました。すると、看護師さんはこう言いました。

「失語症ですからねえ」。

看護師さんの何気ないひと言に私は、病室に戻って大粒の涙を流しました。そして、その日、言語療法士の先生からいただいたリハビリの用紙を破り捨てました。希望のないリハビリなんてして何になるのだろう。だったらリハビリなんてするものかと。怒りと絶望と悲しみがない交ぜになってやり場のない思いにしばらく支配されたのです。

あまり大きな期待を抱かせない、先は長いのですからあせらないで。そういう心遣いから出た言葉であると善意の解釈も今ならできます。でも、その時の私には「あなた、何を言ってるの?失語症なんだから仕事復帰なんて無理よ」そう言っているようにしか聞こえませんでした。看護師さんの本意はどうれあれ、「あなたは失語症」と消えることのない烙印を押されたのです。

言葉のとらえ方というのは、その人の置かれた状況や心理状態によって大きく変わります。励ましに聞こえたり、意地悪に聞こえたり。もし、「あせらないでね」のひと言が添えられていたら、そうね、一歩一歩がんばろうと前向きにとらえたかもしれません。

前者の言語療法士の先生のケースに戻りましょう。お決まりの検査を最後まで押し通されたら、私は立ち直れないぐらい心の痛手を負ったでしょう。すぐにはリハビリに向き合えなかったでしょう。それでも心を鬼にして検査をしなければならない場合もあります。本来そうしなければならないことはわかっています。でも、患者を絶望の淵に陥れるのと、希望の光を差し込むのと、どちらが心の通い合った医療でしょうか。

多くの期待を抱かせないこと、正確な情報を与えることは大切です。しかし、一番大切なのは患者に寄り添うこと。もし、その時まちがった言葉をかけてしまったら、誤解を解く努力をすることが大切です。会話を重ねる=コミュニケーションは育てることができます。

正しい情報共有をするためには相互に努力することが必要不可欠です。問題は、失語症が自分の気持ちを言葉で伝えることが困難な障害だということです。コミュニケーションのツールは言葉だけはなく、表情、態度なども重要なアイテムなので、そういった情報を見逃さないようにすることが大切です。寄り添うとはまさにこのことを言います。

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この記事を書いた人

ナレーター/朗読家/司会/声とことばのトレーナー

コメント

コメント一覧 (1件)

  • 自分も傷つけるようなことをいっているかもしれないとハッとしました。
    自分の発言にもう少し責任感持っていかないとなと思います。

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