8月6日に「広島の二人」を朗読する意味

「広島の二人」の著者保坂延彦さんから朗読を託され、3月にはウクライナ支援8時間耐久朗読を、また、Audibleでも全編を担当した。そして、8月6日。今度の土曜日です。「広島の二人」を「沼尾ひろ子の朗読の世界」でSpecialバージョンで朗読します。

意外かもしれないが、イベントとか記念日とか、実はそれほど好きじゃない。通常の中でいくらでも伝えられるし、記念にするのは忘れないうようにするため、いつも心にとどめておけばそれでよいのでは、と思ってしまったりする。でも、その記憶を薄れさせてはならない。留めおき、おろかな過ちを二度と繰り返さないために、地球上のすべての生きとし生けるものがそれを心に刻み続けるために、この日に、広島に原爆投下された日に、一瞬にして人間が人間でなくなった日に、私は、この作品を朗読します。

ミツ子の80年の生涯を静かに描いた物語。広島で生まれ育ったミツ子には8月6日を境ににしてどうしても思い出せない空白の2年間がある。聡明な母と軍人の父、やさしい祖父母とともに、日々を営んでいたのに、孤児になって教会で育った。そんなミツ子を、東京から映画の取材にきた映画脚本家の島谷隆三が養女としてひきとる。そして、脚本の翻訳をミツ子に仕事として与える。その脚本は、ミツ子の父母の、父、藤田純軍曹とアメリカ人俘虜アーサー・ダニエルズの物語であった。ミツ子の空白の2年間がそこに描かれていた。しかし・・・。

物語全体がとても、静かで上品で、反戦を訴えるエキセントリックな表現はないのだ。なのに、これほど心をゆさぶられるのはなぜか。

8月6日土曜日19時。1945年へ。

この記事が気に入ったら
いいねしてね!

よかったらシェアしてね!

この記事を書いた人

ナレーター/朗読家/司会/声とことばのトレーナー

コメント

コメントする

目次
閉じる