「 脳梗塞・失語症から言葉を取り戻すまで」3〜わたしのなまえがわからない

このあとの記憶はぼんやりしている。どこか2ヵ所に連れていかれた。CTとMRIを撮ったのだとあとで知った。

気がつくと病室のベッドの上にいた。まだ、ぼんやりしている。先生が、「ちょっと背中を丸めてね」「ちょっと痛いですよ」と言っている。その直後、″ちょっと痛い〞どころか、「うっ!」と声が出るほどの激痛が体を走った。検査のために骨髄液を抜いたらしい。これも、 あとで知ったこと。

少し落ち着き、窓の外に目を向けると、どんよりした曇り空しか見えない。私自身は、相変わらず点滴につながれたままだ。よく見ると、管が1本増えている。左手の人差し指がクリップではさまれて、その先に機械が。どうやら私の体は完全に監視されているようだ。

私はひとまず友人たちにメールを送ることにした。サイドテーブルのケータイを取り上げる。えーっと 。あれっ、どうしたんだろう。メールがうまく打てない。伝えたいことがあるのに、頭の中で文章を組み立てることができない。

ケータイに視線を落とす。五十音はどんなふうに配置されているんだっけ。ケータイのキーはちゃんと見えているけれど、文字が拾えない。それでも、とにかく指を動かしてみる。画面に出るのは、いろんな文字と記号がメチャクチャに入り混じったメール。これじゃあ、赤ちゃんがいたずらしてお母さんのケータイを触ってできたメールじゃないの。おかしい。でも、何度やっても同じ。メールが打てない。

このままでいいや。とにかく送ろう。伝えたいことはわかってくれるだろう。そう思って、メチャクチャなメールを送信した。

空白ばかりの数日間が、ここからスタートした。

「MRIに脳梗塞巣がはっきり映りました。命に別状はありませんが、脳梗塞は8センチもあって大きいです。ちょうど言語を司るところにあるので後遺症が残るかもしれません」

容態の急変に呼ばれた家族に医師はそう告げた。私には何も告げられなかった。

周囲がぼーっともやに包まれたような状態になってどのくらいの時間がたったのだろう。

検診に来た看護師が、私の目を見ながらゆっくり大きな声で聞いた。

「お名前は?」

「・・・・・・・・・」

「お・な・ま・え・は・な・ん・で・す・か?」

一音、一音、区切って聞かれ、質問されたことが分かった。

「え〜っと、え〜っと           。ひ         ろ            こ            」

私は、自分の左手首に目を落とした。でもどうしても苗字が分からない。

左手には規定のリストバンドが巻いてあり、そこに患者番号と病室、そして名前が漢字で書かれてあったことを思い出した。

「・・・・・これ   ・・・・・、なんてよむの・・・・・  」

「沼尾って書いてあるよ」

「ぬ         ま            お            ?」

私は、自分の名前も分からなかったし、字も読めなかった。

あるときは、医師や看護師を前にして、ボンヤリとした声ながら、仕事に戻りたいと訴えた。

「私ね、早く戻ってね、テレビの6チャンネルでね。えーっと、えーっと。私の仕事は、なんて言うんだっけ?」

「ナレーターですか?」

「な・れー・たー?」

あんなに好きな自分の仕事の名称も分からなかった。

この時期の私の記憶は、非常に不鮮明である。覚えているのは、目が覚めてから眠るまで、いつもお寺の大きな鐘の中にいるように、頭の中でグワングワンと音が鳴り響いていたこと。付き添われてトイレに行き、便座から立ち上がろうとすると、頭がクラッとすること。早く 退院して仕事に戻りたいと伝えたいのに、それを言葉にできなくて、もどかしくてたまらないことなどだ。

そして、医者や看護師に何か質問されると、必ず「大丈夫です」と答えていた。

いや答えようとしていた。もしかしたらきちんと言えていなかったかもしれない。その時はそんなことすらわからなかった。とにかく、

「もう大丈夫」 と意思表示さえ言えば、早く退院させてくれるのではないかと思っていたような気がする。

 

ぼんやりしていると、病室のスライドドアが開いた。ごく親しい友人がお見舞いにきてくれたのだ。友人たちは、私を真ん中にしてワイワイ賑やかにおしゃべりを始めた。友人たちは外国語でしゃべっている。何の話をしているのかわからない。でも、楽しそうだ。私の心も華やいだ。ニコニコして聞いていた。会話に加わりたいから、途中で「そうなの〜」と相づちを打つ。友人たちは、 私の顔を見て、うなずくと、また笑いながらおしゃべりを続けた。

「名前、取り違えていたね」

帰り道、友人達は「ぴろ、たいへんなことになっちゃったね」と話していたのだとあとで教えてくれた。

私はその場にいた友人たちの名前をごちゃごちゃにして呼んでいたらしい。

不思議だった。みんなの言ってることがわからない。とても広い教室でとても 遠くから聞いている授業のようだ。そして、私は先生の話も上の空のダメな生徒。ゆっくり話しかけられると、わかる部分もあれば、わからないところもある。わからない部分のほうが多いかな。数人が普通のスピードで会話しているのをそばで聞いている場合は、まったくわからない。たとえばロシア語とかフィンランド語とか、普段まったく縁のない言語の国に、ひとり迷い込んだような感じ、とでもいえばいいだろうか。

おまけに、自分の名前が言えない、固有名詞が思い出せない、思っていることがうまく伝えられない。メールが打てない。テレビでドラマを観ていても内容が少しもわからない。 しかし、つらいとも、悲しいとも、苦しいとも思わなかった。その時の私は、自分がどういう状況にあるのか理解できなかったのだ。「わからない」ということが、その結果、どんな現実を引き寄せるのか、まだ理解できなかった。

とにかく、病名がはっきりしたなら、早く治して。そして、いつ退院できるのか教えて。そればかりを願っていた。急遽、休んでしまった仕事のことだけが気がかりだった。

<続く>

 

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「失語症者就労支援のブルーベリー農園を作りたい!」クラウドファンディング、スタートしました!

私が掲げた失語症農園プロジェクトは

「農」を通して、失語症の方が社会復帰できる場所を作りたい!
農業ネットワーク団体「農人たち」の拠点である、栃木県宇都宮市に、失語症者 就労支援型のブルーベリー農園を創造します!
という思いで立ち上げました。
東京を拠点に長年、失語症者の方へ言語トレーニングを行ってきた中で、こんなに熱意のある方々がどうにか社会復帰できる場が作れないかとずっと模索していました。農業を通して、何かできることはないだろうかと。

https://readyfor.jp/projects/blueberryfarm
脳梗塞による失語症から、TVナレーター・フリーアナウンサーの仕事に復帰した私が、農業を始めるきっかけとなったのは、東日本大震災です。「どんなことが起こっても、自分も食べたい野菜を自分で作りたい」「大切な人たちに食べてもらいたい野菜を作りたい」という強い思いに駆られるようになりました。そんな時に、農薬を使わず、有機肥料のみで野菜作りをしている「農人たち」と出逢い、農業を始めることになりました。
失語症の方は、全国に約50万人いると言われています。話す、聞く、読むといった言葉に関するすべての機能に困難が生じてしまうこの症状は、どんなサポートが必要なのか、そもそも、失語症とはどういうものなのか、雇用する際どんなことができるのか、企業のみならず、一般社会においてほとんど理解されていない現状があります。さらに、失語症に加えて運動麻痺をお持ちの方も多くいます。

自然の中で五感を刺激すること、土に触れる。種を蒔く。作物を育てる。収穫する。食べる。これら一連の営みはまさに日々の生活を通して為し得る言語のリハビリです。精神的に安定しストレスから解放されます。、作業が軽度で収穫しやすいブルーベリーは、一般的な農作業は困難な方々でも作業ができます。

失語症の方が働けるブルーベリー農園を作りたい。その一心でナタと草刈機を手に開墾を進めてきました。なんとか30本植えることができたのですが、就労支援をするにはまだまだ苗木が足りません。その購入費用が不足して困っていました。
そこで、クラウドファンディングで賛同していただける方に呼びかけることにしました。
クラウドファンディングは、プロジェクトに賛同していただいた方の資金で目標が達成した時、賛同者はその対価を得るしくみです。

https://readyfor.jp/projects/blueberryfarm

今回のプロジェクトでは、みなさまからのご支援をいただいてブルーベリーの苗木を約150株と土壌改良材を購入させていただきます。栃木県宇都宮市の美しい里山の中に切り拓いた農園に一本一本、想いを込めて定植いたします。10m×100m規模のブルーベリー農園になる予定です。

購入するのは3年目の苗木となるため、定植した翌年からブルーベリーは少しづつ実をつけ始めます。その収穫を通して就労支援を開始していきます。ブルーベリーの成長とともに本プロジェクトもしっかりと成長させていきたいと考えています。

失語症を理由として就労困難な状況に陥っている方々が社会復帰するきっかけとしてブルーベリー収穫を行ない、ブルーベリーを皮切りに、運動麻痺の程度に合わせて野菜栽培にも携わっていくことで将来的に就労につなげていくことを目指します。今回の200本のブルーベリーがまさにスタートラインです!

この活動の最終目標は、失語症の方々が農業を学び農業で収入を得ることです。作物栽培、加工品製造、販売、それを一連の職業として行えば自立の道が開けます。さらに、失語症者の方が置かれている状況を多くの方に知ってもらい、失語症がどういうものかを理解してもらいたいです。

支援していただいた方には、
農人たちが産地から直接お送りする農薬を使わず、有機肥料のみで育て上げた季節の旬野菜をお送りいたします。

そのために、皆様のご協力が必要です。農業を通して失語症の方のサポートをするために、どうか応援よろしくお願いします!
ご支援のしかたはこちらです。

https://readyfor.jp/projects/blueberryfarm

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日本脳卒中協会「サノフィ賞」受賞!

日本脳卒中協会「サノフィ賞」社会参加支援部門を受賞いたしました。
挨拶の全文をご紹介します。

「この度はこのような賞をいただき本当にありがとうございます。
TVナレーター、フリーアナウンサーの私自身、脳梗塞からの失語症となり一時は生きる意力も失いましたが、今、現場復帰を果たし、その経験のすべてを失語症者の言語のトレーニング、社会復帰の応援、また、伝達の難しい失語症の実態を広く知ってもらうことを目的にメディアへの出演や講演活動を行っています。
この場をお借りして、2つのお知らせをさせてください。
1つは、音声を使った失語症の方のボイストレーニングと緊急時にも対応できる持ち歩きのできるハンドブックを作成しました。「音でわかって すぐに使える 失語症ことばの手帳」です。音声ガイドはすべて私自身が録音しました。まもなく発売予定ですので、多くの方に活用していただけるようぜひ宣伝してください。
もうひとつは、昨日、失語症者の就労支援を行うブルーベリー農園を創設するためにをクラウドファンディングを開始しました。実は今、農業しています。農薬を使わない野菜作りを行っているのですが、失語症の方の社会復帰に農業はとても向いていると実感しました。運動麻痺の方でもブルーベリーの摘み取りは比較的簡単にできます。畑は1年間かけて私が耕作放棄地を開墾しました。あと苗木を購入するための支援をお願いしています。5000円からの支援ができますのでぜひ、ご協力をよろしくお願いします。詳しくは私のFBをご覧ください。
最後に、活動には継続することが一番重要だと考えています。これからも、私にできることを、私にできる方法で続けてまいりたいと思います。私のこともどうぞ応援してください。ありがとうございました!」

 

 

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好きな新聞記事の音読

「一緒に行きましょう!と言ってくれて・・・」。電車に乗れるか不安で教室に来ることができなかったのですが、同じ沿線の方が声をかけてくれて教室にやってくることができたのです。なつかしい顔に私もうれしくなってしまいました。けっして無理はしないでいただきたいのですが、交通手段の問題で来たいのに来ることができないのはいかんともしがたく、それでも、一歩を踏み出したことは拍手です。とっさの時に言葉が出ず、どれだけ心配だったかしれません。勇気と行動力、そして、仲間。頭が下がります。

今日は、「新聞記事を読む」ことを行いました。本日発売の4紙を用意しました。そして、まず、それぞれ1紙づつ選んでもらい、その中から、好きな記事をピックアップ。各々記事の内容を読み込みます。ひとりずつ、その記事を声に出して読み、他の方に聞いてもらいます。その記事を選んだ理由や、感想、思ったことをなんでもいいので、最後にひと言意見を言い、他の方も意見を言い合います。上野のパンダ出産、パリ協定、エッセイ、芸能ネタ、ピックアップした内容もバラエティに富んで、みなさんの意見もなかなかおもしろかったです。この新聞の音読の良いところは、自分の興味のある内容を選択することにあります。興味や関心のない記事を読むと、音読も難しさだけが頭に残り、できない経験の上塗りをしてしまいます。関心のある内容は、自分の「知りたい」を満たし、「理解できた」満足感を与えます。だから、意見を述べることもできるのです。できる経験をどんどん積み重ねていってほしいと思います。

次回は、6月27日です。

 

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「 脳梗塞・失語症から言葉を取り戻すまで」2

脳梗塞発症

否も応もなく入院が決まり、一週間の休養が決定的になった。いや、まだわからない。早く回復すれば、数日で退院できる可能性だって残っている。

病室の準備ができたと連絡が入り、私はストレッチャーに横たわって診察室の隣の部屋を出た。さっきまでは車椅子だったのに、今度はストレッチャー。これって、ますますアブナイってことでは。いや、深く考えるのはやめよう。

横たわったまま、人の行き交う廊下を進むというのは、変な感じだ。エレベーターに乗ったときなどは、他の患者さんや見舞客などに囲まれて、なんだか気恥ずかしかった。「こんな若くて美しいお嬢さんが、どんな病に冒されているのかしら」と詮索されているような気がする。 あっ、ちょっと不謹慎ですね。ごめんなさい。私はどんな大変な時でも、大丈夫大丈夫!と笑顔に変換して窮地を乗り越えてきた(?)ので、こんな時にもいつもの癖が出てしまうのだった。

エレベーターが5階でストップした。この階が脳神経外科の入院病棟らしい。病室に入ると、看護師さんが手際よく病院のピンクのパジャマに着替えさせてくれた。これで本当に入院だ。ベッドに横たわり点滴につながれて、私は、誰がどこから見ても、間違いなく“病人〞になった。

翌日、ずっと入れっぱなしの点滴のせいか少し体がラクになった。友人に《とっても暇だから、おしゃべりに来て!》とメールする。

自分の寝ている部屋を見回す。部屋は縦長で、ベッドは窓に平行に置かれている。洗面所もトイレもついてるし、テレビもソファセットもある。うん、本当にホテルみたいではないか。ただひとつ、ホテルにあって、ここにないもの。それが恋しい。お風呂だ。女性としてはシャンプーできないのはつらい。

入院3日目は土曜で、その次の日は当然、日曜日。週末のせいか治療に大きな変化はなし。点滴を打っているだけ。頭の痛みも軽くなってきたような気がする。このまま、とくに何事もなく予定より早く無事に退院、ってことになればいいのだが。

入院して5日目の明け方。実は昨夜から一睡もしていない。入院する前に悩まされた、あのハンマー攻撃が復活したのだ。いや、それを上回る猛攻撃だ。 なぜ?

頭の中で何が起こっているのだろう。

こんな肝心なとき、私の遠慮のない性格は鳴りを潜める。真夜中に看護師さんをお呼び立てするのは申し訳ないし、点滴してるから状態はよくなっているはずなのに、「ますます頭が痛い」なんて、なんだか悪くて言えなかったのだ。 夜が明けるのをじっと待っていた。毎朝6時半に看護師さんがお茶を持ってきてくれる。そのときに、打ち明けてみよう。

「おはようございます。お茶、いかがですか?」

いつもと声が違う。初めてご対面の看護師さんのようだ。

「あの、頭が痛いんです・・・             」

ベッドから起き上がることができないままつぶやいた。しかし、彼女は「お茶は、ここに置きますね」と言って、姿を消してしまった。あまりにもか細い声だったので、聞き取れなかったに 違いない。ああ、どうしよう。子供のように涙が出てきた。

しばらくして、もう一度、病室のドアが開いた。今度は検温に来たのだ。

「あ・た・ま          イタい     」

どのぐらい時間がたったのだろう。1分? 10分? ドアがスルスルッと開いた。パタパタパタ、これは看護師さんの白いサンダルの音。シャワシャワシャワ。これは?おそらくストレッチャーの小さい車輪の音だ。そして、複数の人の気配。

「沼尾さ〜ん          」

名前を呼ばれたような気がする。それも、ずいぶん遠くで。しかし、その声は、どんどん遠ざかっていく。 私の体は、硬くひんやりとした無機質な台の上に移された。シャワシャワ、シャワシャワ。頬にかすかな風が。私はどこかに連れていかれるらしい。どこに? そして、何が起きたの? <続く>

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