前を向くことをやめない限り

他人は「そんなに気になりませんよ」「だいじょうぶですよ」と言ってくれる。本人を励ますつもりの言葉が実は本人を孤独の檻に閉じ込めてしまいます。「だれもわかってくれないんだ」と。

言葉のまどろっこしさは本人が一番よく知っています。発音があいまいなために単語が流れてしまい、そのため、「えっ?」と聞き返される。もちろん、相手の方に他意があるわけではなく、普通に「今なんて言ったの?」と。むしろ、きちんと相手の言ったことを理解して返答したいという真面目な対応です。でも、失語症者にとってはこの聞き返されるという行為が苦しみになってしまいます。それまで言葉が流暢だった人ならなおさらです。スムーズな会話ができず相手に聞き返されることの辛さは他人にはなかなかわからないからないものです。気にしすぎだと周囲の人に言われ、さらに、孤独感が増してしまうのです。

もうひとつ。変に思われたくないという気持ち。「変」とは。知的レベルの低下を疑われること。今までどおりのスピードでしゃべれない、言葉につまる、言葉自体があいまい。これらの現象を目の当たりにした会話の相手が、この人は普通じゃない、この人は知的障害がある人だ、と思うに違いない。相手のちょっとした顔の表情を敏感にキャッチする失語症者の方は多いです。そのぐらい、心に深い傷を抱えているのです。

気にしないで、ゆっくりしゃべればいいんですよ。その方が逆に言葉が明瞭なんです。滑舌に関して一音一音の舌の位置、口の形、口唇の動き、これらを確認していくことを積み重ねていけばスピードは後からついてくる。そのことを身をもって体験している私は、安心させる思いで声をかけました。すると、「でも、それでは仕事はできない。営業ではお客様と向き合うのは一瞬、一時なんです。その一時で、変な人と思われたらもう後がなくて。だから、仕事もできない・・・」

私は思い出しました。たとえ、周囲の人が大丈夫と言っても、自分自身が納得しなければダメなんだ。文字認識してから発声までの0コンマのタイムラグが許せなくて現場復帰をあきらめていたあの時。100%の自信を取り戻してやっとテレビの生放送の現場に戻ってきた。彼も、同じなんです。営業の仕事に100%の自信で取り組みたいんだ。自信がないままではできないいい訳をしてしまうことを一番よくわかっているのは他のだれでもない本人なのでした。

彼の苦手な発音は長音をしっかり伸ばすことで大きく改善します。さらに、発声のスタートの舌の位置を修正しました。何度も繰り返し発声。

「あっ、わかりました!」

声の輪郭がはっきりしたことがわかった瞬間でした。彼の顔が輝いています。私もうれしくなってしまいました。

二人ひと組になって、向き合う距離を広げながらあいさつ。とても魅力的な声なのに少し声量が弱いIさん。離れていると声が聞こえません。遠くにいる人の頭の上にむかって声を出してみてください、とアドバイスしました。すると、伸び伸びした声が響き拍手がわき起こりました。

朗読は「へっこき嫁」。配役を決めて、それぞれの方法でまず自主練習。その後はぶっつけ本番で群読です。ばあさま役のIさん、声の表情がとても豊かです。すばらしい!彼はまじめな顔で、文は読めるけれど、言いたいことが突然消えて頭が真っ白になるといいます。言葉が頭の中で消える。なんだっけ、なにを言おうとしたんだっけ。

5秒前の記憶がなくなるというSさん。

高次脳機能障害の方の苦しみは目に見えないものです。記憶について私の経験から伝えてあげることができません。でも、対処法を一緒に探ることはできます。前を向くことをやめない限り道は開ける。そのことは自信をもって伝えることができます。

また来月、お会いしましょう。

 

 

 

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この記事を書いた人

ナレーター/朗読家/司会/声とことばのトレーナー

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