「こんにちは〜」 カジュアルな服装をした2人の男性が、ひょっこり顔を出した。「あら〜っ。(えーっと・・・・)」ああ、よかった。2人の名前を覚えていた。私は内心ホッとした。この、名前と顔が一致するかどうかというのは、今の私にとってかなり難関の抜き打ちテストだ。
「お見舞いが遅くなっちゃってすいません。沼尾さん、元気そうじゃないですか」
そう言って2人はニコニコしながら顔を見合わせた。彼らは長年レギュラーをつとめているラジオ番組のスタッフ。明るく最近の番組スタッフの様子などを報告してくれた。
話が盛り上がっていたとき、突然病室のドアが開いた。
「沼尾さん、これ、預かってきました」
と看護師さんがA4判ぐらいの水色の封筒を持って入ってきた。私が受け取ると、彼女はすぐに病室から出ていった。何だろう。下のほうに「リハビリテーション実施計画書」という判が押してある。中にはやはりA4サイズの紙が1枚だけ入っていた。
〈ヌマオヒロコ殿 診断名:脳梗塞 jo b ナレーター〉
その下に横書きでチェック項目がぎっしりプリントされていた。
〈寝返りができる 屋内歩行ができる
・
・
・ 〉
よくわからない項目もある。しかし、とくに気になる部分はなさそうだ。一番下の段に手書きで2行、何か書いてある。なんて書いてあるのだろう。達筆すぎてよくわからない。
「これなんて書いてあるのかしら?一番下の手書きの部分」
私は軽い気持ちで、この紙をスタッフのひとりに渡した。
「どれどれ、えーっとですね・・・・日常生活上は問題ありませんが、長い文になると理解が曖昧になるようです。失語症・・・・」
とっさに彼の手から紙をもぎ取った。
「あ、ありがとう」
と言いながら私は動転していた。長い文章の理解が曖昧?失語症??私、失語症なの?
その場をどう取り繕ったのか覚えていない。「リハビリ」という言葉を聞いたとき、ほんの少し明るい光が射したのに、失語症という言葉に一気に底無しの真っ暗闇に突き落とされた。
これまでだって、回復するまで3ヵ月かかる、半年かかる、あるいは1年と聞かされて落ち込んだ。しかし、いつかは元の自分に戻れるのだとどこかで思っていた。だけど失語症についてはよくわからない。ただ、言葉を仕事とする者が、失語症を患うなんて・・・
〈理解が曖昧〉!?自分ではちゃんとしゃべっているつもりで、言われたことも一応わかっているつもりだった。他の人との会話もそれなりに成立してると思っていた。でも、実はそう思っていたのは私だけ? みんなは「わかった」って言ってくれるけど、それは、ここが病院で、私が患者だから?
私は完全に打ちのめされた。私はバカだ。こんな大事な宣告を、何の心構えもできていないまま、他人から知らされてしまうなんて。いえ、知らずに宣告させてしまった2人に申し訳ない。
その後も、表面上は笑顔で、とりとめのない会話を続けた。しかし、心の中で私は自分に向かって叫んでいた。仕事復帰?できるわけないじゃない。私は失語症なんだから。マネージャーに「大丈夫」なんて、どうして言ってしまったのだろう。私、文の理解もできないのに。私はバカだ。本当にバカだ。
どれくらい時間がたったのだろう。
「これ、新社屋の入館証です。僕たち局で沼尾さんを待ってますからね!」
ドアが閉まって、ひとりぼっちになった病室。私の頬を涙がひと粒、つたい落ちた。やがて、あとからあとから涙が転がり落ちる。そうやって永遠とも思える時間、私は涙を流し続けた。手に握りしめた真新しい入館証には「沼尾ひろ子」と印刷されていた。
〈続く〉
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