ドキュメント5 「脳梗塞の後遺症を知らされて」
入院9日目。頭痛はかなりおさまってきたけれど、耳鳴りは相変わらずひどい。とくに左の耳の奥は、起きているあいだ中、鐘がブウォオ〜ンと鳴り響いている。鐘つきの和尚さんに「たまには休憩したらどうですか」と言ってあげたくなる。
午前中、CTを撮りに車椅子で地下まで降りた。病室から出るのは久しぶり。やっぱりうれしい。同じ病院内でも病室と廊下では、なんだか空気が違う。廊下も、脳神経外科病棟の5階と外来フロアの1階は、時間の流れる速度が違うみたいだ。
看護師さんが車椅子を押してくれる。どんなときでも、おしゃべりを楽しみたい私だが、今は違う。黙ったままでは居心地が悪い。でも、何を話せばいいかわからない。元気なら3秒と黙っていられない私、たぶん「看護師さん、お忙しそうですね」「今年は、梅雨がなかなか明けませんね」などと話しかけていたと思う。だけど、今はどんなふうに会話をしたら楽しい道中になるのか、頭が回らない。
それでも、院内を移動するのは楽しかった。行動範囲が制限されている入院患者の楽しみといったら、朝、昼、晩の食事、そして、検査のための移動ぐらいである。5階から地下にエレベーターで移動するだけのことだが、ほとんどベッドに横になっている私にとって、一大イベントなのだ。
午後には、お風呂タイムが待ち受けていた。入院してから9日目にして、初めてシャワーを浴びることを許された。このときをどんなに待っていたことか。体は毎日、蒸しタオルで拭いていたのだが、髪だけはどうしようもなかった。においも気になるし、こんなに頭皮がオイリー で、ペタッとした髪、ありえない! だから、シャワーの許可は、本当にうれしかった。普段ならシャンプーなんて、日常のささいな習慣のひとつ。それが、状況によっては、こんなに気持ちをウキウキさせてくれるのだ。人間がちょっと幸せな気分になるのは、案外簡単なのかもしれない。
入浴後は疲れてベッドに横になった。ただシャンプーをしただけなのに、かなり体力を消耗した。そこに、初めて見る白衣の男性が入ってきた。
「こんにちは。ぬまおひろこさん?」
「はい。・・・こんにちは」
だれだろう。白い服を着ているから医師だろうか。
「調子はどうですか?」
「・・・はい、頭痛だいぶおさまりました。左の目の奥はまだ、ず〜んと重たいです。それと 、耳鳴りがします」
私は、できるだけはっきり自分のことを伝えようと、少しムキになった。「ほら、私はこんなに大丈夫なんですよ。早く退院させてください」という思いがそうさせた。男性は、私の顔をのぞき込んだ。
「うまくしゃべれますか?」
待ちに待った質問が来た。やっと私の話を聞いてくれる人が現れた。ここをうまく切り抜ければ、 退院させてくれるかもしれない。
「あの・・・少しヘンでした。忘れてしまったことが、・・・ありました。でも・・・だいぶ・・・」
「そうですか」
「あの・・・・私、テレビやラジオで、えっと・・・・」
「毎日・・・・しゃべってます。今、仕事、休んでるんです」
「そう、それは大変ですね」
「あの・・・・うまくしゃべれませんが、いつ治りますか?誰も・・・・何にも・・・・教えてくれないんです」
心の中に溜まっている思いを、ここぞとばかりに吐き出した。すると、白衣の男性は、腕を組みながら言った。
「そうね、3ヵ月ぐらいはかかるかなあ」
「えっ・・・・・3ヶ月? そんなに?」
あまりにも想定外の返事に絶句した。
「人によっていろいろなんですよ。半年とか1年、2年かかる人もいれば、リハビリでずいぶん早く回復する人もいます。早ければ2ヵ月とかね」
「だって・・・・最初一週間って・・・・」
そこまで言うと、涙があふれた。
「あの、私、仕事・・・・できないんですか・・・・?」
白衣の男性は私の仕事への思いに、やっと気づいたようだった。
「えーっと、今言ったのは、日常生活を送るための言語の回復のことです」
そう言ったあと、一度、言葉を切って、こう続けた。
「仕事となると、うーん、なんとも言えないなあ」
「なんとも言えない」って、わからないってこと?いつ仕事に戻れるか、わからないの? 私は、ようやく自分の身に起こったことの重大さに気がついた。どうして?どうして、こんなことになっちゃったの?
白衣の男性は
「明日、その他の麻痺がないか、検査しましょう」
と言って、背を向けた。
男性はリハビリ担当の医師だった。
ドアがバタンと閉まった。一瞬の静寂。
私はうまく言葉が出てこない。いつ治るかわからない。これが脳梗塞の引き起こしたものだったんだ。拭いても拭いても涙がとまらず、気がつくと私は声をあげて、子どものように泣いていた。
〈続く〉
コメント
コメント一覧 (1件)
いつもお便り拝見させて頂いております。
私も発症してからまる4年たち沼尾様の気持ちが痛いほどわかります。
「毎日、暑いですねぇ」この挨拶が出来なくて何時も下を向いているのがどんなに辛いか…。
でも笑顔だけは誰にも負けません。
言葉で言えない分、笑顔でカバーしているつもりだから(笑)