「脳梗塞・失語症から言葉を取り戻すまで16〜どう思われようとかまわない。笑って話せる友人との時間を大切にしよう」

ある日の午後、私は一人病室にいました。ソファに腰掛け、言語聴覚士の先生が用意してくれた『声に出して読みたい日本語』から抜粋したプリントを手にし、音読をしていました。用紙には河竹默阿弥の『弁天娘女男白浪』、島崎藤村の『初恋』、『百人一首』などの一部が並び、『般若波羅蜜多心経』やガマの油売りの口上などがありました。これらの有名な一文には漢字がとても多いのですが、すべてふりがながついていて音読すると旋律がとても美しく、気持ちまでが豊かになってくるようでした。

文字を見て「楽しい」と思ったのは、入院して初めてだったような気がします。ただ、まだまだ疲れやすく、あまり続けることができませんでした。

少し横になっていると、ドアをノックする音が。続けて、「ちわーっす」と聞き覚えのある声がしました。現れたのは、一三年間担当してきた番組で一緒だった気心の知れたスタッフ三人でした。ペットボトルの水をたくさん買い込んできてくれ、ニコニコしながら「元気そうじゃない? ズル休みでしょ」、「内緒にしていてあげるから、白状しなよ」などと言うので、大声で笑ってしまいました。

その自分の声に、自分でもびっくりしました。その後も、三人は仕事のことには一切ふれず、たわいのないおしゃべりをし、私が笑い疲れた頃、「ゆっくり休みなよ」と帰っていきました。

こんなに大きな口をあけて笑ったのは、すごく久しぶりのことでした。

私は友人の心遣いに感謝するとともに、今、普通に話ができたのだろうか、みんなは何かおかしいと思わなかったかしら、と不安になりました。

もっと早い時期、お見舞いに来てくれた人を前に、私は大失敗をしでかしました。構成作家や制作プロデューサーの方達が、やはり三人で来てくれたのですが、彼女達の名前が言えなかったのです。自分の病名や担当医師の名前も彼女達にうまく伝えることができませんでした。ただ、私自身、自分の状態をまだよく把握していなかったので、その時は落ち込むこともなかったのですが。

この時期の私は、自分がうまくしゃべれないことを十二分に知っていましたから、「自分は以前と変わらない」ということを、みんなに見せようと必死になり、ついこの間まで窓から飛び下りてしまいたいほど絶望の崖っぷちに立っていたなんて、絶対に知られまいと必死に努力したのです。

今日はうまくいったかしら、まだ、誰にも会わない方がいいのではないかしら、と不安の波に飲み込まれそうになったのですが、私は気持ちを切り換えました。たった今、お腹から笑っている自分がいたのも、また事実。どう思われようとかまわない。笑って話せる友人との時間を大切にしようと決めたのでした。

それからは連日、友人、知人がお見舞いに来てくれました。お世話になっているテレビ局、ラジオ局の関係者、過去に一緒に仕事をしたスタッフ、局アナ時代の同期や、高校時代の友人。毎日、誰かが顔を出してくれ、一人で過ごす日は一日もありませんでした。誰一人として、心配を顔や言葉に出さず、何てことないおしゃべりに大笑いしながら帰っていきました。仕事の話をする人もいませんでした。病室はまるで、誘い合わせてコーヒーを飲みに立ち寄るカフェのようでした。友人達がいる間は、ここが病室であることを忘れることができました。

気の置けない友人達のあたたかい思いにどれだけ救われたことでしょう。私は、多くの人と会って、どんどん前向きになっていきました。会話の途中で言葉が出なくても、言い間違いをしても、恥ずかしがらずに懸命に話し続けました。みんなが帰ると笑い疲れて昼寝をしてしまう日さえありました。笑いに勝る薬はないのかもしれません。笑い声は、私の病気をどんどん治してくれるようでした。

ある時、病室に数年前担当していた番組のデスクの女性が訪ねてきてくれました。左手のひじの内側は、大きな二リットルのペットボトルを四本ぶらさげて歩いてきたためまっ赤な輪の跡がついていました。

「これ、岩手県の龍泉洞の水です。たくさん飲んでくださいね」

龍泉洞は日本三大鍾乳洞の一つ。彼女は岩手県出身で、わざわざこれを取り寄せ持ってきてくれたのでした。何年ぶりかで顔をあわせた彼女は、ひとしきり笑いながら楽しくおしゃべりした後、帰り際、急に真顔になってこう言いました。

「私、沼尾さんの声が大好きです」

有り難くて、心がいっぱいになり、私は本当に言葉につまってしまいました。嬉しくて言葉につまるのは大歓迎。そして、しみじみ思いました。友人は私のかけがえのない宝物だと。

〈続く〉

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この記事を書いた人

ナレーター/朗読家/司会/声とことばのトレーナー

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