リハビリが始まり、一人で病院内を移動することもできるようになり、「仕事のことは考えなくていい」と決心すると、心は軽くなりました。
でも、朝が来ると、私の心に、また重苦しい気分が戻ってくるのでした。
朝は一日のうちでもっともすがすがしく、もっともエネルギーに満ちあふれるひと時のはずなのに、私にとっては、とてつもなく重苦しく、もっとも嫌いな時間帯となってしまいました。
目が覚めると「昨日までのことは夢かもしれない」という厚さ一ミリの氷の希望がたちまちペリンと割れるからでした。
目を開けて、まず目に映るのが病院の天井や壁。現実の始まりでした。
すべて夢だったらどんなにいいだろう、と思いながら一日が始まっていました。
そして、こんな宙ぶらりんな状態は生まれて初めてだったのです。
どうしたらいいのか、何をしたらいいのか、どこに向かっていくのか、自分の意思では何一つ決められない。
永遠に広がり続ける砂漠のど真ん中にポンと置き去りにされているようでした。
一人で迎える朝は、そんな自分の状態を、嫌というほど思い知らされました。
さらに、どうしても「思考」の波が防波堤を越えて押し寄せてくるのでした。
考えないと決めたのに。
―私は〝沼尾ひろ子〟として生きていくための一番大切な武器をもぎ取られ丸裸だ。武器はいつかまた手に入るのかもしれない。でも、それがいつなのかはわからない。
自分の言葉で物事を表現するナレーターという仕事が大好きだ。
これまで、国語力や常識、機転などが必要とされる生放送のVTRアンカーを、自信を持ってつとめてきた。
なのに、私はその術を失った。どうしたらいいのだろう―
仕事のことを考えると、苦しくて、苦しくて、それなのに「大丈夫です」と言い続けた虚勢の鎧がずっしりと重たくて、私は身動きがとれなくなっていました。
「もう、あなたは仕事はしないんだよ」と自分に言い聞かせ、ラクになったはずだったのに……。
それは、絶望的な苦しみでした。
朝は気分だけでなく身体の調子も悪かったのでした。
決まって頭がボワーンと重く、目の奥にも石のようなものがズンズンと積み上げられていく感じ。だるくて、フラフラして、胸もドキドキしていました。
私の一日は、朝五時に始まりました。
五時に起床してカーテンを開け、六時頃までベッドでぼーっと横になり、七時半頃に朝食。ナースステーションに置かれたトースターに、自分でパンを入れに行き、焼き上がるのを待っている間、入浴の予約表の好きな時間に名前を書き込みました。
介護が必要な患者さんの入浴時間はすでに記入ずみ。そこは避けて、午前中シャワーを浴びることができるように予約を入れるまでがルーティン。
朝食が終わる頃に先生が回診にやって来きました。まだ私が口をモグモグ動かしていることもありました。女性たるもの、訪問者があるなら、身なりをきちんと整え、落ち着いてご挨拶したいもの。なのに、先生方は、いつも奇襲攻撃をかけてくるのでした。
もっとも、回診の時間はだいたい決まっているのですから、こちらが見繕いをしていればいいだけの話なのですが、私も自分のペースをくずすのが嫌なのでした。
それでも、先生の回診の時には、早く退院したい一心で、思いっきり笑顔を浮かべてアピールしてみたのですが、先生は「まだ、無理だね」という表情で行ってしまうのでした。
病室では、いつもテレビをつけていました。自宅でもテレビはつけっぱなしのことが多かったのですが、それはデイリーの生放送に必要なさまざまな情報を得たいのと、大好きなドラマを観るためでした。
病室では、テレビを観ても何をやっているのか全くわかりませんでした。もちろん、何を言っているのかも理解できません。それでも、朝から、ずっとスイッチは入れっぱなしにしていました。
夜もつけたまま眠るので、いつも見回りの看護師さんが消してくれました。
テレビは私と外の世界をつなぐ窓のようなもの。外の世界を感じながら夜の眠りにつきたかったのです。
テレビの音がなくなると、別の病室から聞こえてくる苦しげな声や点滴のスタンドを押して廊下を歩く音、ナースコールに応える看護師さんの声などが耳に入ってきます。
私が病室にいるという現実を突きつけてくる音ばかり聞こえてきて、それを遮断するのがテレビの役割なのでした。
この現実の音と夜の闇が重なると、不安も倍増されて眠ることができませんでした。
テレビは私の子守唄だったのです。
ただ、私がナレーションを担当している番組だけは、一度も観ませんでした。
《続く》
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