「脳梗塞・失語症から言葉を取り戻すまで」12 〜 現実を受け入れられない・・・

先生は昨日と同じ笑顔で迎えてくれた。実は、先生の名前をなかなか覚えることができない。顔はちゃんと覚えている。でも、なぜか名前が記憶の中に定着しない。だから、何度も先生の胸のプレートで名前を確認しながら、挨拶をしたり会話したり。他の先生方も同じ。自分のベッドの頭上の壁にある担当ドクター名が書かれたカードで確認しつつ話をしている。

この日、先生は軽く会話を交わした後、

「沼尾さんには、こういうのがいいんじゃないかしら、と思って」

と、A4サイズの紙を4枚、テーブルの上に置いた。そこには、横書きの大きい文字で、短い文章が一行ずつプリントしてあった。

①          青井さんは青いスキーが好きだ。

②          赤い紙に垢がつく。

③          空き家に引っ越したが、秋には飽きが来た。

④          悪の世界のドアが開く。

⑤          アクセントで悪戦苦闘する。

アクセント訓練用の短文の音読を提案してくれたのだ。アナウンサーになりたての頃、毎日こんな文章で練習をしたっけ。懐かしく思いながら、普通に会話するときの声量で読んでみる。こんなに短い文なのに難しい。スラスラと読めない。ちょっと落ち込む。そして、やけに疲れる。

「頑張らなくてもいいですから。少しずつやってみるといいかもしれませんよ」

と先生。このあとのリハビリで新しいプリントをくれるときも同様だった。決して「これをやってください」「やりましょう」とは言わない。毎回、何気ない口調で「こんなの、どうかと思って」と言い「少しずつでいいですからね」と必ずつけ加えた。 仕事のことを考えると、道のりは遠い。『西遊記』並みの途方もなく遠い道のりを歩いていくことになりそうだ。だから、今は仕事のことは考えない。目の前にあるちっちゃな山から越えていくしかないのだ。

病室に戻ると、さっそくもう一度、渡されたプリントを声に出して読んでみることにした。それも新人アナウンサー時代のように、滑舌よく読んでみようと。

うまくいかなかった。その次の文も、その次も、次の次も・・・・。滑舌よくどころか、スムーズに読めない。ましてや全部通しで一気に読むなんて、ありえなかった。もう文字はずいぶん理解できるようになっていた。でも声に出して読むとき、漢字でつまずく。こんな簡単な漢字で。

漢字は表意文字だ。かな文字やローマ字のような表音文字は一字一字が発音を表すのに対して、表意文字は一字一字が直接的にある意味を表す。だから、「青」という漢字を見ると、私たちはすぐに空や海の色を思い浮かべながら「あお」という読み方を記憶の中から取り出し、すぐ音に変換して声に出して読む。さらに、読むときに抑揚はつきものだが、正確なアクセントで読むには、その文字の意味を理解していないとできない。

このような作業は頭の中で瞬時に行われている。一般的には、変換が多少ゆっくりでも、問題はないと思う。でも、ナレーターという職業では、この変換作業が迅速かつ正確でないとお手上げだ。しかも、私がテレビで担当している番組は、事件や事故、社会や政治問題などをいち早く伝える情報生番組。事前にVTRを観ながら原稿を読み、それを収録することがほとんどだが、放送直前にニュースが飛び込んでくることもある。そんなときは、渡された原稿を、放送中に生で読まなければならない。よりスピーディーに、目にした文字の意味や読みを理解し、音に変換しなければならないのだ。

それなのに、こんな短い文章も読めない。普通に読むことさえできない。

「やっぱり、私、ダメだ」と泣きたい気持ちで、プリントをベッドの上に放り投げた。しばらく、ぼんやりと窓の外を眺める。

「どうせダメなのに、こんなことして何になるの?」

また胸が苦しくなり、動悸が激しくなってきた。つらい。この現実から逃げ出したい。言葉を操れない自分を、どうしても受け入れられなかった。こんなみじめな自分では、もう生きてる意味がない。

ふらふらとベッドから降りると窓辺に立つ。右手が窓の鍵にかかる。窓辺に立てかけ「あっ」と左手で支えようとした瞬間、1枚のお見舞いカードが目に入った。

〈ひろ子さんのオーラとパワーで病など吹き飛ばしてください〉

ふわっと力が抜け鍵から右手が離れた。しばらく放心状態で立っていた。どれぐらい時間がたっただろう。

大きく息を「ふーっ」と吐き出した。何度も深呼吸をした。

もう、仕事のことは考えない。仕事はしない。仕事に戻らない。

私は、床に落ちたプリントを拾い上げた。大きく口を開けた絶望の谷の淵ギリギリのところで、つま先で踏んばっていた。

<続く>

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この記事を書いた人

ナレーター/朗読家/司会/声とことばのトレーナー

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